LOGINひかるが握りしめていた小さな鍵。それは、駅のコインロッカーの鍵だった。手のひらに収まるほど小さな銀色の鍵。角が少し擦れていて、長い年月、ずっと持ち歩いていたことが分かる。二年前――俊哉と一緒に住むことが決まったあの日。ひかるは、心のどこかで、彼を完全には信じきれずにいた。愛している。それは嘘じゃなかった。俊哉と一緒にいる時間は幸せだったし、「この人となら普通の人生を歩ける」そう思ったことも、一度や二度ではない。けれど同時に、(いつか、捨てられるかもしれない)という疑念も、確かに存在していた。それは俊哉だけの問題ではない。ひかる自身の中に根深く残っていた、消えない恐怖だった。十五歳から二十歳まで。息つく暇もなく働き続け、必死で貯めたお金。朝から晩まで働いた。眠れない夜もあった。何度も辞めたくなった。それでも働き続けたのは、「自分だけは自分を見捨てない」そう決めていたからだ。その通帳と、わずかな現金。そして、その頃使っていた携帯電話。ひかるは、それらすべてをコインロッカーに預けた。鍵だけを、誰にも知られないように持ち続けて。俊哉にさえ、存在を話さなかった。――もし、何もかも失ったら。――自分が壊れてしまったら。そう思わずにはいられなかったのは、過去に心を壊した経験があったからだ。誰かを信じて、裏切られて。必要とされていると思った瞬間、突然捨てられる。そんな経験を繰り返すうちに、簡単には、人を信じられなくなっていた。だからひかるは、最後の逃げ道だけは、自分のために残していた。駅に着いたひかるは、立ち止まった。朝の駅は人が多い。通勤する会社員。制服姿の学生。笑いながら歩くカップル。誰も、自分になど興味を持っていない。その当たり前が、今のひかるには少しだけ救いだった。俊哉の家から持ち出した、自分の着ていた洋服。安物のカーディガン。何度も洗って色褪せたスカート。「地味」「女として終わってる」そう言われ続けた服たち。それらを一つずつ、駅のごみ箱へ捨てていく。ぽとり。小さな音。一枚捨てるたびに、過去の自分が少しずつ剥がれていく気がした。――もう、戻らない。ゴミ箱の蓋が閉じた音が、静かに区切りをつけた。ひかるはゆっくりと歩き出す。駅構内の端。古いコインロッカーが並
朝、久遠ひかるが目を覚ましたとき、部屋は異様なほど静まり返っていた。いつもなら聞こえるはずの、俊哉の足音も、キッチンで立てる物音もない。耳が痛くなるほどの静けさ。薄いカーテンの隙間から差し込む朝の光だけが、昨夜の出来事が現実だったことを、無言で突きつけてくる。――いない。胸の奥が、ひやりと冷えた。布団の中で、ひかるはしばらく動けなかった。昨夜、夜のリビングで見てしまった光景が、否応なく脳裏によみがえる。黒崎俊哉と、相沢玲奈。まるで互いの存在を確かめ合うように、いやらしく絡み合っていた二人の姿。湿った吐息。押し殺した笑い声。壁越しに聞こえてきた玲奈の甘えた声。思い出した瞬間、胃の奥がきりきりと痛んだ。(もう……嫌だ)その思いが、今朝ははっきりと言葉になった。今までは、「私が我慢すればいい」そう思い込もうとしていた。でも違う。ここに縛られて生きることが、もう耐えられなくなっていた。ひかるはゆっくりと布団から起き上がる。物置部屋の空気は冷たく、薄い布団だけでは身体の芯まで冷え切っていた。小さく息を吐き、壁に手をつきながら立ち上がる。昨日までなら、「今日も耐えよう」と思っていた。けれど今日は違った。胸の奥で、何かが静かに終わっていた。ひかるは部屋を出て、ゆっくりキッチンへ向かった。昨夜の残り物でもいい。何か口に入れなければ、体が動かない。そう思っただけだった。だが。冷蔵庫を開けても、鍋を覗いても、何もない。空っぽだった。昨日、玲奈が買ってきた高級な食材も、作った料理も、何一つ残されていない。ひかるは小さく眉を寄せ、ごみ箱へ視線を向けた。そして、息をのむ。昨夜の食事の残りは、すべて無造作に捨てられていた。まだ食べられる状態なのに、ぐしゃぐしゃに押し込まれている。食料と呼べるものは、何一つ残っていなかった。まるで、「お前の分なんてない」と言われているみたいだった。ひかるはしばらく、その場に立ち尽くしていた。怒りでも悲しみでもなく、ただ、空っぽだった。泣きたくもならない。苦しくもない。何かが限界を超えると、人は感情さえ薄くなるのだと、その時初めて知った。静かなキッチン。時計の秒針だけが、やけに大きく響いている。そして、ひかるは静かに決めた。――
黒崎俊哉と相沢玲奈は、ひかるが壁沿いに一歩、また一歩と退いた瞬間から、まるで合図でもあったかのように、映画そっちのけでキスをし始めた。深く、長く、いやらしく舌を絡ませる。静かな映画音楽に混じって、唇が重なる湿った音が、やけに大きくリビングへ響いた。俊哉の腕は、ためらいなく玲奈の背中を抱き寄せる。まるで、自分のものだと誇示するように。玲奈もそれに応えるように身体を密着させ、細い指を俊哉の髪へ絡めながら、小さく吐息を漏らした。ソファがわずかに軋む。その音さえ、ひかるの胸を削るようだった。そして時折、――ちらり。玲奈の視線が、ひかるの方へ這う。その目に浮かんでいる感情は、はっきりしていた。「羨ましいでしょ」そう言葉にしなくても、十分すぎるほど伝わってくる。勝者だけが浮かべる、余裕の笑み。自分は選ばれ、ひかるは捨てられた。その事実を、何度も見せつけるように。耐えきれず、久遠ひかるは顔を背け、壁の方へ向いた。視界から消してしまえば、少しは楽になると思った。見なければ、傷つかないと思った。けれど、耳は塞げない。押し殺した吐息。小さな笑い声。唇が触れ合う音。全部、壁越しではなく、すぐ後ろから聞こえてくる。まるで、「逃げるな」と言われているみたいだった。そのときだった。リビングに流れ始めた、懐かしい旋律。低く、静かで、それでいて胸の奥を震わせる音楽。ほんの数秒。それだけで、ひかるの呼吸が止まった。続いて、女優の声が響く。――先ほどまでの古い映画が終わり、来週放映予定の映画の予告だった。ひかるは、はっとして振り返った。キスを続けている俊哉と玲奈の、肩越しに。テレビの画面を、食い入るように凝視する。画面の中で、女優が微笑んでいた。柔らかな照明の中で、どこか儚げに。けれど、強く。その笑顔を見た瞬間、ひかるの胸の奥で、何かが大きく揺れた。忘れたはずの感情。遠い昔へ押し込めた記憶。俊哉も気づいたのだろう。ふっと動きを止め、玲奈から離れる。「あ、この女優好きだったんだよな。なんて言ったっけ……忘れたけど。俺が20歳くらいのとき、いろんな映画とかに出ててさ。こんな子と付き合えたらいいな~なんてさ」無邪気とも言える口調だった。先ほどまで、ひかるを傷つける言葉を平然と吐いていた男とは思
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きなんだよね」玲奈が甘えた声で言う。その声は、恋人だけに向ける柔らかさを含んでいた。「昔の女優って、今より色気あるよな」俊哉が、彼女の肩に顔を埋めながら答えた。玲奈は小さく笑う。「分かる。今って、綺麗なだけの人多いですよね」「色気って、余裕なんだろうな」そんな会話を交わしながら、二人は自然に触れ合っている。以前、あの場所に座っていたのは自分だった。映画を観ながら、俊哉の肩に寄りかかった夜もあった。「お前といると落ち着く」そう言われたことも、一度だけじゃない。なのに。今、その記憶はまるで別人の人生みたいだった。私は、部屋の隅に立っていた。洗濯物を畳み終え、行き場を失ったまま。乾いたタオルを抱えたまま、ただ立ち尽くしている。視界に入らないように、気配を消しているつもりだった。空気みたいに。存在を薄く、薄くしていれば、少しは傷つかずに済む気がしたから。けれど――「ひかる」俊哉が、私を呼んだ。肩がびくりと揺れる。「飲み物、取ってこい。玲奈が喉乾いたって」命令する声。そこには、かつて恋人へ向けていた優しさは一切なかった。玲奈が、ちらりと私を見る。「あ、ごめんなさい。いるの、気づきませんでした。……影みたい」その口調は丁寧なのに、目は笑っていなかった。むしろ、楽しんでいるように見えた。私が傷つく瞬間を。キッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける手が、少し震えていた。グラスに氷を入れる音だけが妙に大きく響く。背中に、二人の視線が突き刺さるのを感じる。試されているようだった。どこまで耐えられるのか。どこまで壊れずにいられるのか。
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。責められているのは自分なのに、なぜか加害者扱いされる。そんな理不尽さに、胸の奥が重く沈む。「自分が選ばれなかっただけなのに」玲奈はワイングラスを揺らしながら言った。その仕草は勝者の余裕そのものだった。「努力もしなかったくせに」努力――その言葉が、心の奥で小さく反発した。私は、何もしてこなかったわけじゃない。俊哉が仕事で疲れて帰れば支えた。帰宅が深夜になれば、温かい食事を用意して待っていた。眠れない夜は、隣で背中をさすった。風邪を引けば看病した。仕事で失敗した日には、何も聞かずに寄り添った。生活費を抑えるために節約もした。自分の服を買うのを我慢しても、俊哉のためならと思っていた。美容院へ行く回数も減らした。化粧品も安いものに変えた。そうして浮いたお金で、二人の生活を守ろうとしてきた。ずっと、この人のために生きてきた。俊哉の幸せが、自分の幸せだと思っていた。ただ、それを評価する人が、ここにはいないだけだ。どれだけ尽くしても。どれだけ愛しても。価値がないと決めつけられれば、それで終わりだった。私は何も言わなかった。言い返したところで、また傷つくだけだと知っていたから。黙っていることが、今の私にできる唯一の防御だった。食後。私は黙って洗い物をしていた。蛇口から流れる水は冷たい。スポンジを握る手も冷え切っていた。食器が触れ合う小さな音だけが、静かなキッチンに響く。背後では二人の笑い声。楽しそうな声。その声を聞くたびに胸が痛んだ。けれど、表情には出さない。出したところで喜ばせるだけだから。水の冷たさだけが現実だった
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、玲奈のブランドバッグ。テーブルには飲みかけのカフェラテ。昨日までなかった香水の匂いが、この家に染みつき始めている。私は黙ったまま、床を拭き続けた。すると、カツ、カツ、とヒールの音が近づいてくる。ゆっくり顔を上げると、相沢玲奈が立っていた。腕を組み、私を見下ろしている。「……ねえ」その声音は柔らかいのに、どこか人を試すようだった。「そこ、ちゃんと掃除して。私、埃アレルギーなの。」「……はい」返事をすると、彼女は満足そうに笑った。「素直で助かります。そういうところ、使いやすくて」“使う”。その言葉が、胸に残る。まるで私は、人間じゃなく道具みたいだった。けれど、玲奈はそんなこと気にも留めない。私の横を通り過ぎ、ソファへ腰掛けると、スマホを操作しながら言った。「でも、元々こういうこと向いてたんじゃないですか?」「家庭的っていうか……他に取り柄なさそうだし」返す言葉はなかった。悔しいのに、何も言えない。言い返したところで、また惨めになるだけだと分かっていたから。昼過ぎ。玄関のドアが開く音がした。黒崎俊哉が帰ってきたのだ。今日は珍しく機嫌が良さそうだった。ネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた俊哉は、私を見るなり口を開く。「聞いたぞ」心臓が小さく跳ねる。「お前、ちゃんと掃除してるらしいな」一瞬だけ、胸の奥に小さな期待が生まれた。褒められたのかもしれない、と。けれど。彼はすぐに笑った。「玲奈が言ってたぞ。“元カノさん、家政婦としては優秀”って」元カノさん。その一言で、心臓が強く跳ねた。まるで、自分の存在を勝手に書き







